清須会議
清須会議。
本能寺の変で明智光秀に謀反を起こされ、自害に追い込まれた織田信長の後継者をだれにするかといった会議...ではなかった。
ミスター武士道のこの動画を見て驚いた。
三谷幸喜の清須会議を見た影響で、信長の次男信雄と三男信孝が後継を巡って争っていたが、父と同じく明智軍に自害に追い込まれた信長の長男である信忠の嫡子三法師を羽柴秀吉が担いで、
信長の嫡流である孫の三法師こそ後継者にふさわしいと主張して、うまく清須会議をリードしたと思っていた。
だが、清須会議がはじまる前に、すでに後継は三法師に決まっていたとは。
そもそもなぜ清州で会議が行われたのか。言われてみたら確かにその理由が気になってくる。
安土会議や岐阜会議でもよかったのでは。
三法師が清州城にいたから、織田家の重臣たちが清州に集まってきて会議が行われたとは。
なんで後継が決まっているのに、清須会議が開かれたのか。
それは三法師がまだ幼く、後見人が必要だったからだ。つまり三法師を手に入れることができたものが実質的に織田家の実権を握ることができたのだ。
その名代を信雄か信孝のどちらかにするか決める会議だったのだ。
だが結局、名代は決まらず織田家の重臣である秀吉や柴田勝家たちによる合議制で新しい織田家の舵を切ることに決定した。
だが、信孝が清須会議で決定した合議制をないがしろにし、自分がまるで名代であるかのようにふるまい始めた。
秀吉と敵対し、そのライバルである柴田勝家と接近するなどして、織田家は紛糾。結局真っ二つに割れてしまい、合議制はうまくいかず、秀吉が台頭していく...。
この流れは、関ケ原前夜その秀吉が亡くなって息子である秀頼がまだ幼なかったので、徳川家康ら五大老、石田三成ら五奉行による合議制に移行していったがうまくいかず、結局家康が台頭していくのとよく似ているな。
信長は、自分やその長男が亡くなってしまった場合、織田家が内紛してつぶれたり乗っ取られないようにするために、三法師をあらかじめ後継に決めておいたのに、まさか自分の死後、秀吉に乗っ取られてしまうとは。さぞ無念だったろう。
織田家を乗っとた秀吉もまさか自分も死後、信長と同じように家康に乗っ取られてしまうとは驚いたことだろう。自分のしたことが返ってきた。自業自得というべきか...。
参考 ミスター武士道の戦国噺
新説『清須会議』秀吉に天下取りの野心はあったのか YouTube動画
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