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源頼朝と足利尊氏

ぼっち低等遊民です。

今回は、日本で幕府を開いた源頼朝足利尊氏の二人について。

源頼朝足利尊氏、そして徳川家康征夷大将軍として、それぞれ鎌倉、京都、江戸に幕府を開きました。そもそも幕府とは何でしょうか。

日本では古来から平安時代まで、天皇や貴族を中心とする朝廷とよばれる組織が政治を行って日本を支配していました。ですが、平安末期に貴族のボディガード的な存在だった武士が貴族をしのぐほどの力を得るようになりました。その代表的な武士が平清盛で、朝廷の役人最高ランク太政大臣にまで出世しました。清盛は当時の朝廷のトップであった後白河法皇を幽閉し、最高権力者として君臨するようになります。これが日本ではじめての武家政権誕生だといわれています。ですが、清盛の悪政に不満をつのらせた貴族、平氏以外の源氏を代表とする武士たちが引き起こした源平合戦により、平氏は滅亡。戦いに勝利し、征夷大将軍となった源頼朝は、朝廷から政治権力を奪い、天皇の支配から独立した本格的な武家政権となる組織を鎌倉につくりました。それが幕府です。

以降明治維新に至るまで、日本の政治を支配したのは武士による幕府でした。

源頼朝

武家の名門源氏トップであった源義朝の三男としてうまれます。当時は義朝の後継者になるとは思われてはいなく、悪元太の異名をもつ兄であり長男の義平が次期後継者としてあつかわれていました。ですが、父である義朝や兄である義平は平治の乱とよばれる戦で平清盛率いる平氏に敗れ戦死してしまいます。頼朝は捕らわれ島流しの処分が下されました。のちの歴史的事実を知る我々からすると、殺しておけばよかったと思う方が多いかもしれません。家康もそう思ったのか自身は大阪の陣で、秀吉の息子秀頼やその孫を躊躇なく殺害しています。

流刑された場所で成人し、地元の豪族たちと関係を築き力をつけていった頼朝は島からついに脱走に成功。のちに源平合戦平氏に勝利し、征夷大将軍に。鎌倉幕府を開きます。ですが、自身の死後源氏ではなく、自分の妻の北条家が実権をにぎっていくことになります。結果的に、最終的に源平合戦で勝利したのは源氏ではなく北条氏だったのかもしれません。

足利尊氏

マイナーなイメージが強い人が多いと思います。ですが幕府を開いた将軍なので侮ることのできない、数多くの功績を残しています。

鎌倉時代末期に、源氏と同じ一族の名門足利氏のトップの御曹司として生まれます。

幕府を忌み嫌い自身で政治を行おうとした後大湖天皇率いる朝廷や新田義貞楠木正成らとともに鎌倉幕府を滅ぼします。

ですが、建武の新政とよばれる天皇の、貴族を中心とし武家を排除しようとした、古来の朝廷型政治システムは多くの武士に不満をもたらし分裂、二大勢力が対立することになります。結果朝廷は分裂。南北朝に別れました。

後大湖天皇や貴族、天皇のお気に入りで優遇されていた、少数の武士である楠木正成新田義貞らの南朝グループと、足利尊氏率いる後大湖天皇に不満をもつ全国の大多数の武士たちが、別の天皇を皇族からむりやり即位させつくった北朝グループです。

結果、足利尊氏北朝グループが戦に勝利し、事実上全国の武士のトップになった尊氏は征夷大将軍になり、室町幕府を開きます。ですが争いはまた起こりました。

足利尊氏の弟に直義がいて、事実上彼が政治を行っていました。戦専門の尊氏は政治面に関しては弟にすべてを任せていたのです。ですが高師直という幕府内で頭角を現していた幹部と、政治の権力をめぐってもめます。直義は高師直を幕府から追い出したかったのですが、師直は兄の尊氏のお気に入りの部下でしたので、そうはいきませんでした。

やがて幕府内部で内紛が起こり二大勢力に分裂しました。

高師直を中心とする反直義グループと、足利直義を中心とする反高師直グループです。内紛に巻き込まれた尊氏は、無理やりにでも師直を幕府から追い出そうとする直義のやり方に不満を感じ彼をなだめようと、高師直のグループに味方しました。これにより結果的に幕府トップの兄弟が、分裂しました。

やがて本格的な戦が始まり、結果は直義の勝利となり師直は戦死しました。足利尊氏は、敗軍の将として京に帰還しました。ですが、あくまでもこの戦いは名義上高師直と直義の戦いであって、自分は中立の立場で争いをおさめようとしていたと主張し、征夷大将軍の権限を利用して、幕府の閣議で強引にこの戦いの論功行賞を、負けたはずの尊氏が行い、勝ったはずの直義グループに大きな不満をもたらしました。また新しい火種が生まれました。

そして、弟が生きている以上、せっかく自分が作った幕府がこれ以上また内紛して崩壊しかねないと考えた尊氏は、仕方がなく弟暗殺を計画します。そして実行され直義は死亡。ちなみに源頼朝も、弟である義経を殺害しています。朝廷から独立した組織をつくりたかった頼朝は、義経が朝廷から官位を、兄である自分に無断でもらっていたことに腹を立てたからです。朝廷の操り人形になっていた弟は、兄にとって邪魔で仕方がなかったのです。

ですが、尊氏の生きている間に南北朝は分裂したまま統一することはできず、幕府の権力は日本全国にはまだ及びませんでした。孫の義満のころに南北朝は統一され、幕府の支配は全国に及び、室町幕府の全盛期をむかえることになります。

注意 あくまでも素人が書いた記事なので誤りがあるかもしれません。その点についてはご容赦お願いします。